◆島津義弘の呪い

 当り前のことだが、フィールドに出ると危険はいっぱいある。ときには生死にかかわる窮地に陥ることもある。単独行動を基本とする私にとっては充分に注意しなければならないことだがそれでも非常事態に遭遇してしまうのである。
 もうかれこれ5,6年前になるが、滋賀県犬上郡多賀町と岐阜県養老郡上石津町にまたがる鈴鹿山中での出来事である。キリシマミドリの自分だけのポイントを探そうと滋賀県側から岐阜県側に奥深く入り込み、渓谷沿いのひと一人がやっと通れる踏み分け道を下っていったのである。実はこの道は歴史を刻んだ道なのである。ときは慶長15年(西暦1600年)9月15日、天下分け目の関ヶ原の戦の当日、石田三成率いる西軍の敗色が濃くなった午後、それまでダンマリを決め込んでいた薩摩島津義弘の軍勢が突如動き出し、敵中突破をはかり、すざまじい人的消耗戦を繰り返しながら夕闇迫る中を落ち延びていった際、地元の杣人の案内で鈴鹿の山々を越えるときに通った間道、それがこの道なのである。
 話をもとに戻そう。今は通るひともなくとにかく荒れはてた道なのである。ところどころ渓谷のせせらぎと合流したりして道の痕跡が消えていたりするのである。そんななか、丸太を2本渡しその間に板を並べ、更にその上に土をかぶせた橋がかかっている箇所があった。鈴鹿では良く見かける山中の簡易の橋である。何の迷いもなく、何の危険も感じず、橋を渡り始めたところ突然目の前の景色が一変した。ズボッ、と体が下に落ちた。腐った板と土と私の体がザザッーという音とともに抜け落ちてしまったのだ。幸い川底までわずか1mしかなかったが、それでもしこたま腰を打ち付けたようで立ち上がれない。骨折したか!衣類も大きく破れ汚れ血がにじみ見るも無惨ないでたちに変っていた。状況把握のためしばらくじっとしていると体も動くようになり、どうやらかすり傷程度で済んだようだ。島津義弘の呪いではなかろうが、とんでもない体験をしてしまった。この道はほとんど人が通らないため、ここで骨折でもして動けなかったら“のたれ死ぬ”のは確実であり、今思い出してもゾッとするのである。


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